買いたいものが多すぎてお金がいくらあっても足りない。だから買いたいものに優先順位を立てて買いたいんだけど上位にくるものがどれも高額で全然手が出せず、いまに至る。いま欲しいものは一眼レフとパソコン。特にパソコンは処理が遅くなってきて編集するのに少し違和感を感じるからな 。一眼に関してはどれがいいのかわからない。長く使えるモデルがいいなあ
村田エフィンディ滞土録から見る国際協力のあり方
この小説はある人から勧められて読み始めまして、その人がなぜお勧めしてくれたのかわかる一方、独特な世界観を理解できない自分の頭の悪さを思い知った作品でもあります。
この小説の面白いところは主人公・村田の手記のような形で綴られること。
第一次世界大戦前、村田という男が異国トルコで様々な人と出会い文化を理解しながら生活をする。
そして日本へ急遽戻され、異国の人々との思い出に思いをはせるラストは任国振替になった自分に重なる部分がある。
国境を超えた出会いを思い、それが歴史の中には残らないと憂うような表現があるが意図するが、村田はネガティブには捉えていないと考える。
物語のキーとして鸚鵡が出てくるが鸚鵡は失った人物を思い起こさせるトリガーとしての作用があると感じた。
誰が飼っていたのかわからない鸚鵡を主人公が飼い、彼について考察をする。
人との出会いや思い出というのは本人がいなくなれば、その時々において感じていた主観は消えてしまう。しかしながら、相手側にもその思い出というのは残っていく。
さらにはこの本の場合は鸚鵡であったけれど、今時であれば動画や写真なんかでも後世の誰かに代々とその人というのは伝えられるものだと思う。
最近だとネットで炎上して今でも槍玉にあげられる人は多くあるけど、それは見ただけで反面教師的な側面を瞬時に理解できるから時間が経っても残ってるのではないかと思う。
悪意ある拡散が殆どだとも思うけど。
だけど、一般人が、語り部が少ない人が写真などを通してその人を見たときに、その人の本来からかけ離れるというのは用意に想像できる。
見た目の印象や少ないイメージでその人を補完するからね。
それはその人自身にとっていいことか、悪いことかわからないけれど、少なくとも協力隊を通してみた歴代の人たちの噂はとてもいいものだった。
おそらく先輩方も思い悩みぶつかって協力隊活動を乗り越えたんだと思う。
その辛さはあまりのこっていないけれど、その土地には「彼らはいい奴だった」
そういったことしか残ってないけれど、それで充分だとも言える。
そういった人たちがいたからこそ、国際協力の輪は続いていき、それがいつか自分たち自身を助けることになるとも思う。
協力隊の主たる目的の草の根活動はこういった思い出の連鎖をつなげていくことにあると考える。
異国の地で私たちは異国の文化に触れその出会いを大切にし伝えていく。
異国では、自分と過ごした経験を思い、日本のことについて知ってもらう。
そういった連鎖が将来どこかで互いを助けるきっかけになるかもしれない。
それが国境を超え国がつながっていくことではないかと思う。
ある日のスリランカ・日本・韓国のボランティア活動